昭和五十六年十月十四日 朝の御理解
神訓 信心の心得 「体を作れ。何事も体がもとなり。」
私はここ、五、六日にもなりましょうか、朝と晩と二回、私共は、教会の者は全部二食でございますから、朝と晩ですが、朝もカレー、晩もカレーち。もうカレーライスばあっかりね、何にも他の物は食べたくない。こんな事じゃ体がもてんだろうかとか、栄養が片寄るだろうかと。そりゃ色々まあ栄養学とか何からかんから、いうたらそうかも知れませんけれども、本当は食べ物じゃないようですね。
昔の例えば、特に禅宗のお坊さんなんかちゅうのは、もう絶対菜食ばかりで、それでいて大変長生きが多かったといわれとります。だからもう、ほんに、肉も食べにゃいかん、魚も食べにゃいかんと言う事じゃない事が分かりますよね。
それこそ、神縁まことに不思議にしてと、こう、皆さんがお唱えになる中には、今日はその事をしきりに頂くから、どういう事じゃろうかと思うとりましたら、今のこのいうならば、体を作れという御教えでしたから私の心の中に、いわば、体が求めるもの、それはね、もう非常に、まあ不思議な神様の働きの中にあっての事でございます。
昨日なんかは肉とか、かしわとか、様々なお御馳走が、夕べの夕食の時に、いっぱい出とりましたけれども、全然一切れも頂きたいと思わんのです。もう好きなお芋でも、頂きたくないんです。そして頂くのは、いわゆるカレーも辛い、インドカレーのね、それに又、洋胡椒をふってソースをかけて、そして結局丼一杯頂くんです。それを朝も晩もです。しかもここ五、六日続いているんです。私はね、ここんにき、一つお互いの観念というものがね、あれを食べにゃいかん、こりゃまあ、いうなら、カロリーがどうの何のとこういうふうに今申しますよね、栄養学からいうと。決してそんなこつじゃない。私は信心でおかげを頂くという事は、もう一つ向こうの世界がある。いわゆるそういう観念、それを、そんなら栄養をとらなければならないから、為には果物とって、こうという、それがいけないという事じゃないけれども、だから体が弱るんだという観念は捨てなければいけませんね。
私の方は貧乏で、肉も買いきらん、魚も買いきらんから、本当に野菜ばっかりで、栄養失調になりだんせんじゃろうかと思うから、栄養失調になるわけ。ね、そんなこつじゃない。もう本当に神様、天地のお恵み、御恩恵によるものをもって、私共のその命の為に作り与えて下さる飲物であり、食べ物である。それを問題は、それを有り難く頂く心というのが大変問題でありましてね。ね、有り難く頂く心。私共が、だから「学が身を喰う」という事を、教祖が仰るですね。ですから少しばかりの栄養学なら栄養学を知ってるとね、あり食べちゃいかん、こりと、こりと食べにゃいかんと言うたような、大変窮屈な、ややこしい事になりますよね。これがいつまで続くやら分かりませんがね。
しばらく私は豆腐ばあっかり頂いた時代がありました。一ヶ月も二ヶ月も続きましたようにですね、まあそれがどうという事ではないのですけれども。体を作れとこう仰せられますけれども、その体を作るとが、食べ物で作るなどというような観念は捨てなければいけないという事を言いたいのです。ね、体を作るという事は、食べ物ね、栄養とっちゃならんというのじゃないですよ。
けれどもそれは、いわゆるお互いが、観念によるその食生活といったようなものが、健康に直接まあ繋がりもしましょう。けれども、ではないもう一つの食生活があるという事。信心生活による食生活と言う。
昨日十三日会でございましたから、色々皆さんのお話を聞きました中に、最後に若先生がお話をしとりました中に、今度御本参拝で、まあ合楽フアンというか、合楽に傾倒しておられるというか、大変合楽にひいきにして下さる泉南教会というのがあります。大阪講演の時に、もうそれこそ思わず知らずでしょうね。合楽の信者さんがあそこにまとまっておる所に見えてから、「合楽教会万歳」とあそこでいわれた先生。ですから、息子さん達もやっぱり、その合楽の研究を一生懸命なさっておられるわけ。それが丁度たまたま若先生が同期の、学院が一緒であった。先生とぱったり御本部で会いましてから、もう大坪先生、私はこの頃いよいよ合楽理念の素晴らしい事が分かった。もう合楽の親先生がいわれる成り行きを尊ぶ、大切にする、土の心でとかといわれる、それがね、もう絶対金光教の信者、信奉者が、ここん所が分からなければ、肝心要の信心とは、本心の玉を磨くものぞやという事が分かりませんという話をしたという事を昨日言うております。
ね、信心は、もう兎に角、いうなら本心の玉を磨くものよと、というてどんなにして磨くかというて、磨く手立てというものを、かって教えられた事がなかった。ただ磨かにゃん、磨かにゃんであったけれども。ね、合楽理念に基づく所の本心の玉を磨くという事は、いうなら、土の心でとか成り行きをいよいよ徹底して、それを尊ぶ事になるとね、いうなら昨日文男先生が申しておりましたように、お話の前に神様から金鳥蚊取線香を頂いたとこういう。いわゆる蚊香線香だけれども、これはいよいよ馬鹿、偉大なる馬鹿と阿呆でという時に頂くお知らせで、しかもこれに火がついておらなければ、熱つうというような信心が出けなければというような話をしておりましたがね。もう確かに合楽理念によるところの、いよいよ馬鹿と阿呆で道を開かせてもらう為には、いよいよ成り行きを尊び、大切にいよいよ土の心をもってこれに徹する生き方に徹しておるところから、初めて本心の玉が磨かれ出して来たという。これは大発見だと、だから金光教の信奉者全体がここんところが先ず基礎基本として分かって、本心の玉を磨くという事になる。ね。
そこで私は、体の丈夫を願えという今日の御理解をです、なら、体の元というのは、私共のその色んな、色んな観念がね、邪魔をしておる場合がある。観念をかなぐり捨てて、一切神様頂きますという心あらばという信心によらせて頂くそのもう一つ向うの方にです、いうならば体の健全を願う前に、心の健全を願えという事、ね。いうならば、心の健全に肉体が伴うて来るおかげを頂かせて頂く為にも、いよいよもう兎に角、私は金光様の御信心はね、合楽でおかげを頂く、おかげ頂かんならんから成り行きを尊ぶとか、大切にするというのじゃなくて、ね、本心の玉を磨くものぞやと仰せられるから、いよいよ本心の玉を磨くというか、豊かにするというか、大きくしていく為には、合楽理念に基づく、いうならば成り行きをいよいよ尊ぶ、大切にする、土の心でといったような信心が行じられて、初めて本心の玉が光り出して来るのだ。初めて本心が豊かに大きくなって来るんだ。そこには、光り輝くような、所謂、真善美に輝く世界も顕現されて来るであろう。ね、又いよいよ豊かに大きくなっていくのですから、おかげの方も豊かに大きくこれに伴うて来るであろうというふうに思います。
先ず何というてもね、だから健康がやはり、体の丈夫を願えとこう仰せられておりますから、体の丈夫を願う。為には、なら食べ物で一つ、例えば体操やら運動やらでと、こりゃ私は今はお医者さんがみえて、日に十分でも十五分でもよいから散歩して下さいとたんびんに言われるけども、暫く実行してましたけれども、体が足が重くて散歩が出けん。今それを止めておりますけれども。散歩したから、どうしたからという事じゃないです。けれどもね、私はお医者さんの言う事を聞かにゃいかんと思うて、他の事は何でも言われる通りに、忠実にまあして、守らして頂いとりますけれども、体の丈夫を作る事がそのまま適当な運動とか食べ物でもありましょうけれども、それだけじゃない。ね、それこそ菜食だけでも、それこそ百歳迄も生きておられたというような人が、お坊さんの中には多いという。してみると、これはやっぱ考えなきゃいけないという事。
結局、有り難い、勿体ないといったような心で頂かれる事が、それが長生きにも繋がっていく事でしょう。体の丈夫にも繋がっていった事でしょうがです、金光教の信心では、なら食べ物が、肉はいかん魚はいかんのという事はないのですから、何でもそりゃ頂いていいですけれども、それが自分の体を支えて、体の丈夫は、自分は食生活が出けておるから、良い生活が出けておるからという事ではない。ね。神様のおかげを頂かねばというのがもう一つ向うにあって、先ず体の丈夫を願う前にゃ、先ず心だと。
心の健全、もうそれこそ自由自在に、自分の心を有り難い有り難いと使うていけれるような、処がぎこちない、使われない心の不具者である事を、先ず悟れ、心がちんば(びっこの意)引いとる。心が片目であったり、盲であったりしとる。ね、その目が開かれて、いうなら自由自在に心が使える。いうならば自由自在に自分の健康も頂けれるようなおかげにも繋がる。信心による体の丈夫を願えという事は、先ずは体の丈夫を願う前に、先ず心の健全、丈夫を願えという事にもなるのでしょう。しかも、なら本心の玉を磨く事が信心だという事になれば、どげんして磨くかというのではなくて、もう合楽理念に基づく生き方をしよれば、何時の間にか磨かれて来る。豊かになって来る。大きくなって来るという事になりますよね。 どうぞ。